「切り捨てて良いオタク」がいなくなる?! - 一億総オタク化社会

2005/10/10

日曜コラムです。こんばんは。3連休のため月曜日にお送りしております。
 
「電車男」
 
この言葉を知らない日本人は、もはや居ないでしょう。この「電車男」が、
その内容はどうであれ、メディアの世界に与えた影響は小さくありません。
その影響の1つに、「電車男」に乗じた
 
 「オタクブーム」が立ち上がりはじめた
 
ことが挙げられます。いや、正確には、ブームを作りたがっている人々がいて、
汗水流して頑張っている最中、といったところでしょう。
 
 「『韓流』も道半ばで雲散霧消しちゃったし、
  何か代わりになるモンねーかなぁ~。
  あー、そうだ。「電車男」もあったことだし、
  これからは『オタク』でしょ!、ってのはどうだ?」
 
くらいのノリで、勢いだけでアクセル吹かしている感が伝わってきます。
十分に露出を増やして、キーワードを消費 して、ブームが飽きられる頃には
「もう十分稼いだしオッケー!」 というシナリオを描いているのでしょう。
 
というのも、彼らの持ち上げる「オタク」のポジション、つまり心の中で
実際に「オタク」をどう思っているか、という部分が、その取り上げ方に
にじみ出てくるからです。ハッキリ言ってTVドラマ「電車男」の中のそれは、
 
 明らかに「珍獣」扱いであって、
 
決して「オタクも認めらる時代が来た」という流れではありません。
ペットショップでいえば 「イグアナ」 みたいなモノ(?)です。
 
少なくとも世間では、従来の悪イメージ的なオタク像というのは、
 
 「自分がイケていることを証明するための、イケてない比較対象」
 
であって、オタクが自分より下な生物であってくれないと困る人は大勢います。
ダサくて、クラくて、キモチ悪い、オタクという存在がいてくれて初めて、
自分がダサくなくて、クラくなくて、キモチ悪くないことが証明されるのです。
 
■asahi.com be「テーマ:オタク - 否定的な評価が多数に」
http://www.be.asahi.com/20051008/W17/20051003TBEH0006A.html
 
オタクは 「視野が狭い」「気持ち悪い」「あか抜けない」 ・・・。
それはある意味、「そうあって欲しい」という願望の表れでもあります。
 
 
そんな中で、ひとり 「ニューオタク論」 を徹底的にプッシュしているのがNRIです。
彼らは1年前くらいから、オタク・マーケティングの重要性を説いてきました。
勿論、彼らもオタクというキーワードでビジネスがしたいという動機を持っている
ことには変わりありませんが、その指し示す方向は納得性の高いものがあります。
 
■オタクは遍在する――NRIが示す「5人のオタクたち」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0510/06/news068.html
 
5種類の分類については異論もあろうと思いますが、これは分類というよりは、
理解を簡単にするための 「モデルケース」 と捉えたほうが良いでしょう。
 
これに対して、徳力さんのエントリではこう述べられています。
 
■FPN「全くオタクじゃない人なんて本当にいるのだろうか」(徳力さん)
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=838
個人的には、この定義で全くオタクに当てはまらない人って
本当にいるんだろうか?とか改めて思ってしまったりします。

全く以っておっしゃる通りです。すなわち乱暴な話、NRIの文脈で言えば、
 
 「○○にハマった」=「○○オタク」
 
ということであって、そういう話をするならば、多かれ少なかれ
誰もがオタクなんじゃないか、ということになるでしょう。
そしてそれは正しい見方であると私は考えています。
 
「それはちょっとおかしいのでは?」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。
オタクというのは、「一部のヘンな人」 であることが条件のハズなのに、
一億総オタク化というのはそもそも矛盾しているのでは? というワケです。
 
しかし、私は情報の流通コストが低下し、人々が簡単に 「情報富豪」 になれる
土台が整ってきたことで、人々の興味は果てしなく分散し、全員が全員、
ある特定の話題背景(コンテキスト)に於いてのみオタクとなる社会の到来が
現実味を帯びてきたことをお話してきました。過去のエントリから探してみましょう。
 
■2004/11/01 [報道メディアから「対話メディア」への重心移動
報道メディアから「対話メディア」への重心移動]
すると何が起こるのか。余った時間は、自分の好きな分野の
「Tail」を深める ために使われるのです。その意味で、これから到来する
情報社会は「情報エンタテインメント社会」と言い換えても良いでしょう。
チャネルが細分化された趣味の世界に於いて、自分の知的欲求を極限まで満たし、
それを自身の現実の生活に於いて昇華させていくことが、これからの時代の
「ネットとの付き合い方」 のメインストリームになると考えられます。

■2004/12/12 [オタク化の拡大とセグメントの細分化
オタク化の拡大とセグメントの細分化]
これはオタク市場の縮小を示しているのではなく、セグメントの細分化
を示しているのです。個々のセグメント当たりのオタク数の増加は簡単に限界を
迎えますが、その一方でセグメントの数は爆発的に増えていきます。すると、
全セグメントを一望した際の総オタク数は増え続けていくことになります。

■2005/03/13 [マスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ(後編)
マスが全てだった時代から、ニッチが普通になる時代へ(後編)]
この状態では個々のノードは、
「全体のことを知ることはできるけど、全体を気にしたりはしない」
という新しい ドツボ社会 を形成していきます。つまり「見ることができる」
かどうかは問題ではなく、「見たいもの」と「目に入ったもの」しか見ない
世界になっていくのです。

■2005/05/08 [情報量に比例するジャンルの細分化と興味の分散
情報量に比例するジャンルの細分化と興味の分散]
これは勿論、「音楽」に限りません。「小説好き」「映画好き」「ドラマ好き」
「アニメ好き」 なんていう大雑把な括りを持ってきても、互いが共通認識を
持ってコミュニケーションできる保証など全く無いといって良いでしょう。
 (中略)
人々が 情報富豪 になれる環境が整えば整うほど、「一億総オタク化」
とも言える状況に近づいていく・・・、そう考えれば判りやすいでしょうか。

 
私が一貫して説いている 「一億総オタク化」論法、それを支えているのは、
情報流通コストの低下に起因する 「共通認識の希薄化」 です。
限られた情報しか摂取できない環境では、人々の間に「共通」が生まれやすく、
逆に、欲望の赴くままに好きな情報を大量に摂取できる環境では、興味対象が極度に
分散されることによって、拠り所となる「共通」が確保できなくなっていきます。
 
オタクという存在は、言ってみれば 「自分とは違う理解不能なもの」の総称 でした。
たとえばサッカーでも、Jリーグのチームの応援をしているだけなら単なるサッカーファン
ですが、南米の弱小クラブチームに入団した期待の新人の名前をソラで言えたら、それは
サッカーオタクです。「普通はそんなの知らないよ」というところまで突っ込んでいるからこそ、
彼らはオタクとして、尊敬であれ侮蔑であれ、区切られた見方をされる存在だったのです。
 
その考え方は、自分が 「ノーマル村の住人」 であることが大前提でした。
「ノーマルである私」と明らかに違う、それこそがオタクの証明だったのですから。
 
ところが上記の通り、簡単に情報富豪になれる環境では、「共通」がそもそも形成されません。
自分自身がノーマルかどうかを判定するまでもなく、「ノーマル」が判別不能であり、
 
 自分の村を一歩離れると、常にコミュニケーション不全に陥る
 
というアナーキーな状態になってきます。
 
コッチの奥さまは、アジア系スターの最新動向に夢中ですが、
アッチのおじさまは、クルマの新車発表のチェックに余念がありません。
大学生の彼は、UKロックの新人が有名になる前に輸入版を手に入れていますし、
女子高生の彼女は、最新ネイルアートのウワサを聞くととにかく試したがります。
 
さあ、彼らが集まって、最初に振られる話題は何ですか?
共通に見ているドラマもありません。時事ネタだって、通じるかどうか判りません。
まさか「いいお天気ですねぇ~」で延々とお話しているワケにもいかないでしょう?
 
今までは良かったのです。「大都会・共通」 に住んでさえいれば、
それ以外の行き過ぎたハマり度を見せる 「弱小村民」(=オタク) のことは
切って捨てても誰からも文句は言われなかったのですから。ところがこれからは
その都会は次々に分裂し、拠り所そのものがあやふやになっていきます。
 
 自分と違うもの=切り捨ててよいもの、という公式が崩れて
 
しまうのです。人々はなまじ好きな情報を好きなだけ追える環境を与えられること
によって、逆に自分自身が「ノーマル」であるという拠り所を失ってしまうのです。
 
そんな社会で必要になるのは、
 
 他人と自分は違う。それを当たり前として捉える。
 
という考え方です。誰しもハマっているモノがあり、それは情報流通コストの
低下によってより深く進行していく可能性があります。共通を共有できない相手は
オタクであるという判別ができなくなった以上、誰しもが「ある意味オタク」であり、
 
 自分自身までも他者から見れば「ある意味オタク」である
 
という現実と向き合っていかねばなりません。一億総オタク化社会とは、
そうした中小規模の村が 互いの存在を認めたまま不可侵を貫く という
「ドツボ社会」なのです。ネットを得て加速されたオタク・コミュニケーションは、
その最初のスタートダッシュにすぎないのかもしれません。


2005/10/10 [updated : 2005/10/10 23:59]


この記事を書いたのは・・・。
CK@デジモノに埋もれる日々 @ckom
ブログ「デジモノに埋もれる日々」「アニメレーダー」「コミックダッシュ!」管理人。デジモノ、アニメ、ゲーム等の雑多な情報をツイートします。




« F1日本グランプリ2005 - 現地ムービーレポート(予選&決勝)

トップに戻る

ネットdeダビングが失敗するときは「再起動せよ」? »


▼ はてなブックマークのコメント ▼

はてなブックマークで
コメントしましょう
wacky 2005/10/11
各人が情報を好きなだけ摂取できる環境では、共通認識が希薄になり、一億総オタク化が進む。
dodolaby 2005/10/11
情報流通コストの低下に起因する 「共通認識の希薄化」に基づく、互いの存在を認めた不可侵状態
kasedac 2005/10/11
"情報流通コストの低下に起因する 「共通認識の希薄化」"で、"互いの存在を認めたまま不可侵を貫く"社会に
fellows 2005/10/11
↓字が多いッ!なんらかの共通体験はあると思いますけどね。同時代を生きてるのだから。
hiroki_ya 2005/10/11
デジモノさんは、毎週、良いコラム書きはりますねぇ……。
memoclip 2005/10/11
ネットによって同行の士が見つけやすなったからこそ他の趣味をもつ人との交流が難しくなった(???)
maroyakasa 2005/10/11
これについて書く。
ken_wood 2005/10/11
>情報の流通コストが低下し人々の興味は果てしなく分散し、特定の話題背景に於いてオタクとなる社会の到来
endo_5501 2005/10/12
>オタクという存在は、言ってみれば 「自分とは違う理解不能なもの」の総称
AdYandW 2005/10/12
 http://plaza.rakuten.co.jp/h2hiruck/diary/200510260000/
shibuyan730 2007/10/16
若干古い記事ですが参考になる
はてなブックマークで
コメントしましょう


Vの数字:VTuberの配信のいまを「生配信」「編集動画」「ショート」の分類と配信時間から読み解く試み


【にじフェス】ライバーとリスナーが互いの「実在性」を確認し合った日 ~「にじさんじフェス2022」 in 幕張メッセレポート


「にじさんじ甲子園2022」熱狂を駆け抜けた1カ月。充実した「解説」がエンタメを加速する


トウカイテイオーと、#ウマ娘 でまた巡り逢った。テイオーを追ったリアルタイムの記憶。


映画は2回目が面白い! 僕らは鑑賞者という名の「共犯者」 ~映画鑑賞に於ける慣れと鑑賞技術の関係


「爆音上映」と「辛口ブーム」、映画の上映に於ける音量のラベリング


日本シリーズの最後のシーン(西岡選手の守備妨害)の解釈と、スポーツのルールとコントロール


モノクロレーザーのある生活 - とりあえず印刷(だ)して持って行く習慣


「スマートビエラ」が踏み抜いたというARIBの「放送の一意性確保」ルール


終わってしまった「Amazonガチャ」のサービス検証 - 変われる道はあったのか?


ドリフの思い出と"おとうさん"の言葉 - 「俯瞰的錯誤」のお年頃


「同い年の選手」が引退するニュース、そしてアニメの中の「おじさん」

ピックアップタグ




ブログ内検索



▼ コメント ▼

No.1743   投稿者 : 通りすがり人   2005年10月11日 12:25

この文章の論調は、情報流通コストの低下によって一億層オタクになるから、
いままでオタクに対して悪いイメージを持っていた人もオタクになるんだし、
みんな同じアナのムジナになるんだから、オタクっていう存在をちょっとは
見直してねっていう、オタク擁護論のように思える。

しかし、asahi.com be での調査で大多数となった人たちが抱くオタクのイメ
ージと、この擁護論で語られているオタクのイメージにはギャップが有るよう
に思えて仕方がないし、この擁護論では、前者のイメージを覆すことは到底
できないように思える。その理由は前者はキモい人をオタクと呼ぶのであって、
知識が専門化・細分化しているかどうかは付加的などうでもいい事だからだ。

> 自分と違うもの=切り捨ててよいもの、という公式

が崩れると書いてあるが、何かに異常に詳しくて話が面白い人が切捨てられ
ているという話は聞いたことはない。重要なのは結局コミュニケーション能
であろう。文章の最後には、

>互いの存在を認めたまま不可侵を貫く

社会になる、と書かれているが、そんなことをするからオタクと呼ばれるの
だ。共通の話題は自分で作るものだよ。具体的に言えば、自分の専門を相手
の興味を引くように話す力、相手の専門を語らせて会話の場を楽しくする力
が、細分化していく世の中で重要になっていくのでは?

シナジーという言葉があるように、異なる存在はそれぞれ孤立するだけが
選択肢ではないと思われ。情報流通コストが下がったのであれば、異なる者
と共鳴するための広い見識を得るコストだって下がっているはず。なにも
大の男がネイルアートのサイトを見て回る必要はない。そんなものは期待さ
れていないし、詳しかったらかえってキモい。そうではなくて、どんなに情
報が細分化したとしたって、同じ人間、三食食べて、一日動けば眠くなるん
だから、「不可侵を貫く」なんて言ってないで人を楽しませる愉快な話でも
考えてみたらどうだろう?同じ日本に住んでいるんだったら、幸い、同じよ
うに四季を楽しめるし、それぞれの季節に応じた楽しみだって、いくらでも
あるはずだから。


No.1744   投稿者 : なすび   2005年10月11日 14:32

これまでオタクだけが持っていた「非常識」の属性と、特定分野における知識・技術を
分けて考えるべきでは? 正直、いわゆるオタクのカテゴリーに入らない人でも、常識
に欠ける人はいっぱいいるわけで、よく漫画や2ちゃんのAAで語られるキモオタ像の
「不潔」「くさい」なんて属性は、一部のギャルも持っている(いた?)訳です。

電車の中でエロゲの話をするオタクと、電車の中でふんぞり返って大声で電話する
DQNなあんちゃんは私にとって同列です。

例えば、「匠」と呼ばれる熟練職人も、ある意味オタクな訳ですし、専門馬鹿になりがち
な大学教授なども立派なオタクでしょう。どこでそれを分けるかと言えば、特定の分野に
異常な興味を示し、かつ常識に欠ける行動をとる人ってことでしょうか。その中でアニメ
など特定の分野にレッテルを貼ったものをオタクと呼称しているだけだと思います。

NRIのやっているオタクのカテゴリー分けは、マーケティングにおけるセグメンテーション
だと思います(つまり、金儲けのために市場を細分化しているだけかと)。


No.1745   投稿者 : 匿名   2005年10月11日 20:15

アメリカとかって既にそうなんじゃないの、と思いつつ読みました。あっちは情報の流通の変化じゃなくて、構成員のバックグランドの違いゆえにそうなってるわけですが。そういう意味では、構成員に同質性を期待出来ない社会ならそうなるであろうという割と普遍的な姿とも。

でも、既にコミュニケーション能力とか常識とかいうコメントが付いてることからも分かるように、その手の共通基盤があることを暗黙の前提にした日本の状況はまだまだ続くかも。オタク問題の文脈で語られるようなコミュニケーション能力って、異文化社会では問題にされませんよね。


No.1746   投稿者 : 通りすがり人   2005年10月11日 20:58

> 異文化社会では問題にされませんよね。

本当か?根拠は?


No.1747   投稿者 : 匿名   2005年10月12日 06:46

現在のオタク肯定の流れは、「西洋に於ける個人主義」が実感出来るレベルで日本社会に定着しつつある事の現れだ、という事でしょうか。

> 互いの存在を認めたまま不可侵を貫く

というのは、まさしくヨーロッパでの宗教改革に始まる個人主義、ひいては多文化・多民族社会での前提ですが、今は世界的な保守主義の進行とともに本家ヨーロッパでも後退しつつあるようです。

それはともかく、この考え方で行くと、宗教改革にあたる出来事が、日本では情報社会の進展による「オタク」の一般化により成し遂げられつつある、ということになります。宗教改革は「活版印刷により聖書が大量に出版された事」を背景に持つ事を考えると、妙に類似性があるような気がして、あり得ない事ではない気がしてきます。

宗教改革は
「商業の発達により成立したブルジョア階級と、その正当性を保証するプロテスタント」

「伝統的な王侯貴族階級と、その権威を保証するカソリック=ローマ教会」
の対決の図式で説明されますが、

現在の日本では「ブルジョアオタク」の台頭により「日本の従来的ななにか」が圧迫されている、とNRIは分析しているのだ。
ΩΩΩ<な、なんだってー

という感じでしょうか。あとは、両者の正当性?は何が保証しているのか、というのが問題ですが、なんなんですかね。オタク側は「萌え」ですかね。メディアはキーワードとして気に入っているようですが。そうなると反対側は「かわいい」でしょうか。うーむ。

などど妄想を繰り広げて失礼しました。


No.1751   投稿者 : 匿名   2005年10月13日 01:20

>>オタク=「自分とは違う理解不能なもの」の総称
たしかにオタクって語は「自分(ノーマル)とは違うもの(アブノーマル)」って意味で使われてたな。でも元々は、SF同人サークルがお互いのサークルのことを「おたく(のサークル)」って呼びあってたんだよなぁ。それがいまや一億総オタク化、ずいぶん変わったもんだ。
>>彼らが集まって、最初に振られる話題
そもそも、彼らが何故集まるのかってところがわかりにくいのですが?
地域の集会とかなら集まる目的があるわけだし、世間話なら社会や政治から下世話な話まで色々あると思いますが。だいたい層が違う者どうしで趣味の話なんかしますか?趣味の異なる者どうしの会話なんて今も昔もそんなに変わらないような気がします。


No.1823   投稿者 : CK   2005年11月 6日 15:20

「Anonymousさん」が同一人物かどうか全然区別が付きません(汗

●通りすがり人さん
おっしゃるとおり、互いに疎になる方向を良しとせず、もっと交流を深めるべき、
という理想には異論の無いことと思います。私がここでお話したことは、
人の欲望に忠実な進化は、頭の中の理想からは外れていく、という主張でした。
暖かい大家族が必要なら昭和後期の核家族化は進むはずがありませんし、
平成のケータイ繁栄による対面軽視の希薄な人間関係は促進されたはずがありません。
つまり「家族・友人との暖かい交流」が善であるという教えを頭では知っていながら、
人々の本当の欲望は実はそれとは逆を向いていた、という気がしているのです。
未来の人々はネイルアートと同じくらい四季にも興味が無いかもしれませんし(´・ω・)ねー
 
●なすびさん
確かに、「嫌われる」という意味でのオタクは、何かにのめりこむだけでなく、
常識に欠ける行動を伴っているために嫌われる、という言い方ができるかもしれませんね。
一方で、セグメントの細分化は、ゆっくりではありますが着実に「常識」のゆらぎを
助長するという側面もあります。もし各人の「常識」の共通部分が減っていけば、
私達はどんどん「他者を常識外れ認定する(あるいは「さえる」)」可能性が高まるのかもしれません。
 
●Anonymousさん
この手の論に拒絶反応が起こることは自然なことなのかもしれませんね(´~`)
少し話は違いますが、女子高生やネット界隈で新語が生まれるたびに「言葉の乱れが・・・云々」
という反撃が出るのを見ても判るとおり、長年拠り所にしていた「共通・常識」は、少しでも
変化が起こるだけで強い恐怖を受ける人が大勢います。言語も、コミュニケーション様式も、
生活も、いつだって「前時代より乱れることを少しずつ許容して進化してきた」のですけどね・・・。
 
●Anonymousさん
宗教革命のお話は興味深いですね。「オタク」が云々はともかく、
「活版印刷」と「テキストネット」には大いに類似性を感じます。
人々は面白いくらいに「自分に届いた情報」だけに強く影響されて生きますから、
情報という最強の武器を活用できるプレイヤーが増えれば増えるほど、
人々の生き方は多様化していき、また、対立を助長するのかもしれません。
 
●Anonymousさん
「オタク」という言葉は、当初の「お宅は・・・」という語源からは完全に独立してしまいましたねぇ。
 
 > 世間話なら社会や政治から下世話な話まで色々あると思いますが。
ポイントはここですね。「世間話なら色々ある」という前提が、「10年後」といった単位だと本気で危うい
と思っています。おっしゃるとおり、趣味の違う人同士でわざわざ趣味の話をすることは無いと思いますが、
これだけ好きな趣味の情報がいくらでも探れる時代、逆に趣味以外の話題を取り込む「ポケット」のほうは
どんどん小さくなってしまいます。「○○のことだったら一応誰でも知っているだろう」という前提が
どんどん範囲を狭くしていったら、コミュニケーションもひと苦労ですよね(・ω・)


No.6303   投稿者 : マッカラン   2007年1月12日 19:06

>世間話なら色々あるという前提が、「10年後」といった単位だと本気で危うい
というのは疑問です。
だって、学生時代に友達との会話ってなんでした?
服、音楽、テレビ、ジャンプ、勉強、女の子、これだけあれば十分だったと思います。
趣味の種類が増えたとして、他者とのコミュニケーションのツールそのものとしては弱いのではないでしょうか。
あくまで、生身の他者とのコミュニケーションにおいてですが。
ネット上においても、趣味の細分化は進むでしょうが、選ぶのが面倒になってメインストリームに乗っかる、というほうがありえると思います。
アニメのハルヒなんかその典型で、内容が面白いというより、旬だから、という理由であちこちで取り上げられたという部分が大きいのではないかと。


No.8161   投稿者 : 私の消しゴムの頭の中   2007年3月15日 02:49

一億総オタク化だって?

甘い。甘すぎるよその考えは。

確かに「何かに詳しい人」とかいう意味じゃそれは正論だが、世間はそうは認めない。

つまり、アニメとかゲームにハマって萌え~とか言ってニートで引きこもりでキモい奴らがオタクであると認識してるんだから。

それ以外のオタクはオタクではないんだよ。(オシャレにハマって詳しい人がいてもファッションオタクと呼ばれないようにね。)

ネットが共通の話題をなくすと述べてたけど、それは「役割」が多彩になるだけ。職場での自分、恋人と一緒のときの自分、家族と一緒のときの自分。学校での自分。友人といるときの自分、バイト先での自分、部活動での自分、塾での自分、ネットでの自分・・・・

人間関係が多彩化するとケースに応じて人はその場にふさわしい役割をふるまうんだ。

だから、価値観や趣味が違う人が互いに集まり、彼らが関係を持たねばならない状況になったとしても、共通の話題 という当たり障りのないものをふって 彼らはその場をやりくりするわけだ。

ただ、それはそれとして、やはり共通の趣味を語らいあう方が人は快感だしストレスもないというもの。mixiを見てもわかるようにね。ネットがそれを結びつきやすくさせるわけだが、それとオタクという問題が必ずしも一致しないということだ。

その理由はさっきも述べたように、一般人が定義するオタクとあなたが(ここで)定義したオタクにおおきなずれがあるからだ。

だから一億総オタク化というのは 甘いというのだ。



★コミックダッシュ! 10,000人突破ありがとうキャンペーン!(9/18~10/23)
 
デジモノに埋もれる日々 : (C) CKWorks