情報量に比例するジャンルの細分化と興味の分散
2005/05/08日曜コラムです。皆さんは最近、カラオケ を楽しまれますか?
私はすっかりカラオケに行くことは無くなりました。
カラオケ産業が斜陽と言われて久しい昨今でありますが、
JKA(全国カラオケ事業者協会) なんていう団体が発表しています
「カラオケ白書2004」という資料からの抜粋を見ますと、
1989年頃から急激に増加した各種数値(参加人口、ルーム数、施設数)は、
1995年頃にピークを迎え、その後2003年までの8年間かけて、1995年のピークから
比較すると、おおよそ20%減 までじわじわと圧迫されている状態になっています。
カラオケから客足が遠のいている原因に挙げられているのは、
「ケータイの普及」に起因する 若者層のおサイフ事情の悪化 です。
ケータイが必須アイテムになり、月額1万円近い出費を強いられた若者層は、
もはやカラオケという娯楽に出費する余裕を失っている、というワケです。
なるほど、確かにそうかもしれません。でもこの理由であれば、
カラオケに限らず、どの娯楽でも事情は同様と見ることができるでしょう。
そして、実際他の娯楽もケータイに圧迫されていることは確かです。
しかし、ふと我に返って考えて見ます。
「じゃあ、カラオケは今でも魅力的な娯楽であって、
金銭に余裕があれば、明日にでも皆でカラオケに行きたいか?」
人それぞれだとは思いますが、私はどうにも気が進みません。というのも、
カラオケがコミュニケーション・ツールとして成り立たなくなって
きたような気がするからです。・・・いや、実は今日の本題はカラオケの
お話ではないのですが、カラオケを題材にしてちょっと考えてみましょうか。
カラオケで盛り上がるためには、音楽に対する 「共通認識」 が必要です。
平たく言えば、自分だけしか知らない歌 なんて歌っても、一緒にいる
人たちはリアクションに困ってしまいます。誰でも知っている歌を歌ってこそ、
上手く歌えているのかどうかを判別したり、手拍子などでノリを合わせたり、
一緒に合唱したり、「一緒に何かやったよ!感」 が醸し出されるのです。
十年前くらいには 「サザン」 と 「ドリカム」 と 「安室」 くらい
覚えていればそれなりに連帯感がありました。
締めの曲はチャゲアスの「YAH YAH YAH」とか、
ブルーハーツの「Train Train」とか、今考えるとよくもまぁ、あんな お約束の
ワンパターン で盛り上がっていたな、と思いますが、その根底にあったのは、
やはり特定の音楽を通じて皆が一緒に楽しめる、という共通認識の存在でした。
では今現在、そういった 「音楽の共通認識」 はどれくらい存在しているでしょうか。
そう思って最近の音楽を思い浮かべてみると、「コレならみんな知ってる」という
ストライクゾーンは狭くなって、好みがすっかり分散しているような気がします。
売れていればイイというものではありません。「皆が一緒に楽しめそうな曲」という
のを探そうとしてみてください。最近だと 「オレンジレンジ」 でしょうか?
あとは「ポルノグラフィティ」とか、それから「L'arc-en-Ciel」とか「B'z」とか?
「これなら皆知っているでしょ?」というセンが見つけ辛いのではないでしょうか。
そうなると、各々が好きな曲を歌っても、隣の人は
「何この曲? 知らない・・・」
という話になってしまいます。同じ「音楽好き」でも、全然話が通じていないのです。
A「オレ、Grapevine が好きなんだ」
B「へぇー。」
B「ボクは、SOUL'd OUT が好きなんだよね」
A「そうなんだー。」
A&B「・・・・・(続かね~!)」
みたいな。いや全然、笑い事ではありませんよ・・・。
「J-POPを聴くのが好き」 なんてレベルでは、共通認識がまるで芽生えないワケです。
こんな状態でカラオケに行ったら、皆で盛り上がれる歌を探すだけでもひと苦労、
なんてことになりかねません。そして私は、こうした 共通認識の希薄化が、
次第にカラオケから楽しさの体験を奪っていったのではないかとさえ想像しています。
これは勿論、「音楽」に限りません。「小説好き」「映画好き」「ドラマ好き」
「アニメ好き」 なんていう大雑把な括りを持ってきても、互いが共通認識を
持ってコミュニケーションできる保証など全く無いといって良いでしょう。
何故に人々の心からは、こんなにも「共通」が減っているのでしょう。
私はその理由が、情報の流通コストの低下にあると考えています。
情報が乏しい頃は、皆が同じ情報を追い求めるのは 「傾向」ではなく、
「制約」からくる必然 でした。「ドリカムの新曲が大ヒット!」と言われれば、
とりあえずみんな、ひととおりチェックしたのです(だって他に聴くモノ無いし)。
ところが、大量の情報が安価に手に入るようになったことで、人々は
「みんな一緒」ではなく、思い思いの好みを勝手に追い求められるように
なりました。そうして情報をいくらでも掘り下げられるようになると、そこには自然と、
ジャンルの細分化と興味の分散 が進行していくことになります。
「オレ、邦楽の中でもHipHopを良く聴くんだけどさ~。
HipHopといっても、最近結構メジャーになった○○○もいいけど、
最近インディーズで注目の△△△が凄いイイ感じでね~・・・」
という人がいたとしても、それは「ビジュアルとジャニ好き」の人からすれば、
すっかり相容れない別世界であって、「しらんがな(´・Д・`)」 状態です。
人々が 情報富豪 になれる環境が整えば整うほど、「一億総オタク化」
とも言える状況に近づいていく・・・、そう考えれば判りやすいでしょうか。
勿論それはあと1~2年なんていうスパンのお話ではありません。きっと
10年~20年といった長いスパンで着実に進行していくようなお話になるでしょう。
流通する情報量に比例して、ジャンルの細分化と興味の分散が起こる、そして、
人々の意識から「共通の全体」が薄まり、興味によるドツボ化が進行する、
そんな社会を想像するにつけ、私は1つの予感めいたものを感じています。それは、
「必要な対話」の世界から、「ためにする対話」の世界への変遷
です。前者と後者の違いをもっと判りやすく説明すると、
前者:「対話する 『相手』 が強制的に決まって、相手に合わせた対話 『内容』 を探す」
↓
後者:「対話する 『内容』 を好みで決めて、内容に合った対話 『相手』 を探す」
というシフトが進んでいく、そんな予感がするのです。逆に言えば、共通認識が
希薄化していく以上、趣味の深い対話は、近しい相手とはほとんど取れませんから、
『内容』→『相手』という順序でしか対話が進みようが無いとも言えます。
ねぇ、そんな世界は一見 「グロテスク」 に感じますか?
そんなことを許して 「未来の社会は大丈夫なのか?」 と思ったりしませんか?
私もちょっとだけ、そんな不安を感じなくもありません。
でもその一方で、こんな風にも思います。私たちの視点はいつの時代も常に、
『過去』は古臭く、『現在』は常識的で、『未来』はグロテスク
という定式に当てはまっています。私たちの常識も、過去の人からすれば、
毎日数時間座りっぱなしでモニタと睨めっこなんて、さぞグロテスクな社会に
見えることでしょう。ケータイを捨てれば友人関係がリセット
されるなんて、昭和の時代から見たら、グロテスク以外の何者でもありません。
私たちが未来を見たとき、現在から見たグロテスクは、未来では普通になっている・・・。
上に示したような対話の変遷も、そんな風に説明できたりするかもしれません。
情報が大量に流通し、それを知的欲求に従ってむさぼる私たちが進む先には、
果たしてどんな 対話社会 が生まれているのでしょうか。私たちが普段何気なく
ネット上で交わしている対話は、そうした変遷を予兆するものなのかもしれませんね。
2005/05/08 [updated : 2005/05/08 23:59]
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▼ コメント ▼
No.1186 投稿者 : HgCdTe 2005年5月12日 01:18
今回の内容は、梅田さんのサイトなどで少し前から話題と
なっている「Long Tail」に繋がるなぁと感じながら、
拝読していました。
以前の「情報オタク」などの話題と関連付けて、より
深いお話が伺えればと、期待して待ってます。
No.1188 投稿者 : うーん 2005年5月12日 05:58
対戦ゲームでネット上に相手を見つけるように、カラオケもマイクロカプセル化して、一人一人が入ったカプセルからヴァーチャルな空間で一つの部屋にアクセスして、同じ様な好みの曲で歌うようになるのでしょうか?ちょっと気色悪いかも。
「マスの死」が昨年来色々な場所で取りざたされていますが、地上波TVが娯楽の王座から消えて行くことで、益々音楽などの同時体験ができる可能性が少なくなりますね。
Gararge Bandなんかを見ていると、逆に音楽を簡単に作って衆人に問いかけて行く「1億総クリエーター時代」になるのではないかと思うのですが、どうでしょうね。
No.1202 投稿者 : CK 2005年5月15日 03:50
●HgCdTeさん
仰るとおり、「Long Tail論」と「マス&ニッチ論」は表裏一体という感じですね。よく言われる
「マスはもともと美味しいけど、ニッチも美味しくなってきた」という一般的なLong Tailとは違い、
私の考えるLong Tailは、「マスの美味しさが減ってニッチ側に分散する」ために生じるという考え方です。
そして「共通の全体」は、極端な不幸が一斉に訪れない限り、強くなる方向に向かうことはないだろうと、
漠然と考えているところです。
今後もこの手のお話はエントリしていきますので、こんな奇妙なお話にお付き合い頂けましたら幸いです。
●うーんさん
そうですね。確かにオンラインゲームのようなカラオケは「気色悪い」感覚はあるかもしれません。
私はこんな風に思います。その気色悪さというのは、10年前の自分が感じたであろう、
・「将来の若者は皆、電車の中でケータイを覗き込んで無言で入力するようになるのか、気色悪いな」
・「就職面接の申し込みまで、将来はWebの画面から入力するだけで終わるのか、軽薄もいいところだな」
こんな思いと似たところがあるかもしれません。やはり常に未来はグロテスクですよねヽ(´ー`)ノ
「1億総クリエイタ時代」は私もそう思います。その一方で、そのときのその「クリエイタ」とは、
共通の全体にリーチしなくても良い、と割り切ったものになるでしょう。(今まで「クリエイタ」とは
共通の全体にリーチできる特別な存在のことでした)。インターネットでWebサイトを作れば全世界から
アクセス可能、でも、全世界が私に注目してくれるワケではない、というのと似ているかもしれません(?)
No.1205 投稿者 : HgCdTe 2005年5月15日 14:41
CKさん:
コメントありがとうございました。
ふと、思い出しました。
CKさんのマス&ニッチ論と昔の少衆・分衆論(藤岡和賀夫の
「さよなら、大衆」とか)との立ち位置関係がどうなっているか。
ちょっと調べてみます。今後ともヨロシク。
No.1210 投稿者 : CK 2005年5月17日 17:21
●HgCdTeさん
少衆・分衆論については、恥ずかしながら不勉強でした(´・ω・`)
バブル時代の嗜好の発散傾向について散々議論があったのですね(当時中学生の私には何とも・・・)。
ざっと見回してみたところ、立ち居地は近いものと思います。当時は相当叩かれていたようですが・・。
私は、人々の興味が集中~発散の間で揺れながら、全体傾向は徐々に発散に向かう、
というイメージを持っています。情報的に裕福な状態というのが発散を後押しし、
逆に前時代より情報的に貧困な状態というのは、そう簡単には訪れないという考えです。
こちらこそ今後とも宜しくお願いいたします。
「「必要な対話」の世界から、「ためにする対話」の世界への変遷」
共通認識の希薄化
おもしろいなぁ。カラオケから考察をひねりだすところとか。
「共通認識の希薄化」
これは面白い話。最近なんとなく感じていたことがはっきりしました。
近頃のカラオケの話から未来社会の話へ。悪くない。タイトルはこれでいいのか?
カラオケに見る、共通意識の希薄化
コメントしましょう