「産業」よりも「文化」- 国内のブログとネットコミュニティ

2005/05/01

日曜コラムです。おはようございます(今起きましたスミマセン)。
 
今回は珍しく、ひと回り熱く燃え上がってそろそろ沈静化しそうな話題に
乗り遅れ間際で参戦します。というのも、梅田さん、R30さん、徳力さん、
finalventさん等、そうそうたる方々を中心として盛り上がっている、
 
 「日本のブログはどうして議論が活発にならないか談義」
 
のようなものがあり、この議論に火をつけるにあたって、先日のPageViewに
関するエントリもちょっとした呼び水として活用頂いていたことがあります。
 
■R30さん「ブログブームの終わり」(R30::マーケティング社会時評)
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/04/boomofblog_63eb.html
日本のブログ・ブームは、そろそろ「終わった」と断言しても
良いんじゃないか。さらなる成長を遂げるためには、どこかで
明確なタームの転換が必要になりそうだ。

■梅田望夫さん「Blog論2005年バージョン(2)」
(My Life Between Silicon Valley and Japan)
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20050426/p1
日本のIT産業界の超一流の個人が肉声や本音や仮説をどんどんBlogを
通して語ってくれるようにはならないものか、という期待であった。
(中略)
そういう方向を目指すBlogは相変わらずほんのわずか。日本のBlogは、
そちらに向かっては進化していないように思える。残念ながら今のところ、
僕の期待は裏切られたのだな、というのが正直な感想なのである。

■徳力基彦さん「ブログタイプに見る日本のブログブームと言うもの」(FPN)
http://www.future-planning.net/x/modules/news/article.php?storyid=545
とりあえず、日本におけるブログと言う言葉が、普通の人にとっては
「面白い日記」として定義されてしまったことを感じてしまうのです。
もう、こうなってしまうと、しばらくは大企業の社員が実名で「ブログ」
を書きやすい状況になるということはないでしょう。

お一人お一人が主張されている内容はそれぞれ微妙に違っており、そのあたりは
ぜひ引用だけではなく元エントリのほうを全文ご覧頂きたいと思うのですが、
それにしても、全体としてひしひしと感じるこんな 空気 があります。
 
 『 米国のBLOGは 「政治経済の高度な議論」
   惜しげもなく披露されて社会的地位を築いてきたけど、
   日本のブログは ただの「しゃべり場」 で終わりそう? 』
 
こうした問題提起は概して議論を広げるために意図的に攻撃的なテーマ設定が
なされているのですが、これに対して急増するトラックバック記事では、
 
 ●確かに高度な論壇系は増えないね、しょんぼり派
  →何故情報が表に出てこないのか 検証してみよう派
 
 ●ただの「しゃべり場」で 何が悪い?派
 
みたいな流れが大勢を占めています。私が「乗り遅れ間際のエントリ」
をわざわざ投入しようと考えたのは、ここでスルーされそうな、
 
 ●趣味娯楽 情報の流通量は むしろ最強だよ派
 
という視点を、しっかりとテーブルに乗せておきたかったからです。
 
政治・社会や経済・金融・ビジネスといった真面目な議論の分野では、
ネット上のコミュニティがその界隈に影響を与えるほど強い力を持ち得たという
ストーリーには今のところなっていません。その一方で、様々な趣味世界の情報を
追求するという目的では、日本のネットコミュニティは大きな力を発揮し続けています。
 
政治・社会や経済・金融・ビジネスといった真面目な議論が沸騰することを
望まれていた方々には、この状況は残念というほかないでしょう。ですが
それはあくまでご自身の期待と方向が違ったというお話にすぎません。
乱暴に言ってみれば、ラーメンを注文したらチャーハンが出てきたけど、
「チャーハンはラーメンよりレベル低い」 という比較に意味が無いのと同じこと。
日本のブログ、ネットコミュニティは今、極上のチャーハン (?)なのです。
 
日本のブログは、知的欲求の充足 という感情に正直に進化しています。ただ、
大衆の知的欲求が、政治・経済の真面目な議論という方向を向いていないだけです。
アキバblogさんの影響力1つをとっても、それは良く判ります。パワーバランスが
趣味世界に向いているのは、知識の需給バランスを正しく反映している結果なのです。
 
米国で政治・経済の論壇系ブロガーの動きが盛んであり、彼らに相応の地位が
与えられているのは、おそらくは読者たる大衆がそれらの分野を重視して、
相応の興味を抱いているからでしょう。つまりそうした真面目な議論が
 
 大衆から「必要とされている」からこそ、
 
そうした議論をできる人が価値を認められ、議論が意味のあるものとして認められる
土壌が形成されます。「真面目な論壇」の能力がある人 が多いから
支持を得ているワケではなく、潜在的に「真面目な論壇」が求められているからこそ
「真面目な論壇者」が足場を得るという 順序 で成り立っているのです。
 
日本ではどうでしょう。大衆の知的欲求は「政治・経済の真面目な議論」では充足
されません。これは日本が総中流階級の社会であることと関係があるかもしれません。
社会を変えるための一歩抜きん出た議論は、日々の生活に於いては「要らぬ努力」であり、
逆に食うに困って何が何でも社会変革を欲するような状況でもありません。
それでいて微妙に裕福な大衆は、己の知的欲求を趣味娯楽に向けることになります。
大衆の知的欲求が趣味娯楽に向いた瞬間、ブログ/コミュニティで足場を得られる人々
の種別も 「趣味娯楽を追求した情報の造り手」 に集中することになります。
 
少し仰々しい言い回しをしてみましょう。日本でいま革命的に発展しているのは、
 
 「産業の情報」ではなく「文化の情報」である
 
と私は考えています。
それはまるで、縄文土器に初めて縄で模様を付けた縄文人のようです。
彼らは、如何にして小さな労力で大量の土器を作れるかを追求するという
「産業努力」をちょっとだけサボり、土器の周りに模様を付けるというオシャレ、
つまり「文化の醸成」にのめり込み、そこに自己の存在理由を見出しました。
 
大衆の知的欲求が「趣味世界」に向けられ、そこで充足されるということは、
つまりそういうことなのです。少なくとも現在の日本の情報の需給バランスは、
明日を生きる糧よりも、生活に潤いを与える遊びの充実に傾いています。
 
ブログというツールは、情報流の活性化という目的に適した素晴らしいツールです。
しかし、器(ツール)の上に何(情報)を載せるか をコントロールするのは、
ツールではなく「人」です。「人」が決まれば、主流となる情報も決まります。
 
 ●「政治・経済・ビジネス」などが好きな米国人は、ブログをそれに使った。
 
 ●「趣味世界」に没頭することが好きな日本人は、ブログをそれに使った。
 
 ●一方、ロシアは鉛筆を使った。(・・・いや、冗談ですよ?)
 
そう考えれば、日本のブログ/コミュニティは米国と「向いている方向」が
違うだけで、健全な進化を続けているのが判ると思います。
「国際問題」「金融危機」「ITビジネス」 といった真面目なテーマと横並びで、
「映画」「読書」「写真」「車」「萌え(?)」 といった娯楽テーマが存在し、
各々の分野に自然発生したギークが「趣味娯楽」という意味で高度な議論を展開
するネット社会、それはきっと、消費経済に少なからぬ影響を与えてくるでしょう。
 
そんなことを考えて、ふと思い出したのは昨秋の隊長のエントリでした。
 
■切込隊長さん「ブログを書いて商売になるかどうかは成功者待ち」
http://kiri.jblog.org/archives/001061.html
私は"Baseball"と「野球」は別物だと思っている。
フィールド上のルールは同一でも、それを取り巻く仕組や思想は
まったく違うからだ。同じように、アメリカで普及している"BLOG"と
日本の「ブログ」は別なのではないかと思っている。

私は当時この言葉を、「ブログはアメリカでは大成するが、日本では大成しない」
という意味と捉えて、多少の反発を覚えていました。ですが、今は同じ言葉を
「日本のブログはアメリカとは違う形で大成する」と読み替えればよいことに気が付きました。
 
いずれにせよ、ネット社会を形成する情報は、そこに住む「住人」の意思 から
積み上げられたモノになるでしょう。私は前述したような娯楽テーマそれぞれの中に、
「各々のテーマの中では高度である情報」の交換が活性化されることを期待しています。


2005/05/01 [updated : 2005/05/01 23:59]


この記事を書いたのは・・・。
CK@デジモノに埋もれる日々 @ckom
ブログ「デジモノに埋もれる日々」「アニメレーダー」「コミックダッシュ!」管理人。デジモノ、アニメ、ゲーム等の雑多な情報をツイートします。




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ced 2005/05/02
なるほど。
bhikkhu 2005/05/02
それでも、ちょっと寂しいのだ。
pho 2005/05/02
極上のチャーハンというのはなかなか面白い視点である
Kazabana 2005/05/02
ということはキャズムを超えるプロセスも日米で違うのだろうか。
manamanmana 2005/05/02
極上チャーハン、マクルーハン(笑)
stella_nf 2005/05/03
「極上のチャーハン」という比喩がよい
kasedac 2005/05/03
日本の知的欲求の内実。"「趣味世界」に没頭することが好きな日本人は、ブログをそれに使った。"
yasnori 2005/05/04
趣味世界のblogはアメリカでも充実してるのでわざわざ議論する意味なし
Yuichirou 2005/05/04
首都の三要素(だったかな)は「政治の中心」「経済の中心」そして「文化の中心」。
TatayukiN627 2005/05/07
現在のネットの住人がエンタメ寄りということですね。
uemu 2005/05/28
「産業」と「文化」、「BLOG」と「ブログ」 アメリカと日本のBLOGとブログの比較
tnk962 2005/05/30
今更ながら、とても感銘を受けた
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No.1123   投稿者 : uni   2005年5月 2日 09:18

個人的にBlogはただの便利なツールだと思っています。
私は海外での事情も、流行った経緯もすべて知らないし、ぶっちゃければ興味が無いので各個人が自由に使えばいいのではないかと考えています^^;
物に制約されるのが人ではないし、物を自由に使うのが人ですよね。
国には文化がありますし、物に使い方にも文化が出てしまうのも道理です。

だから私の中では「初心者がより簡単にWebコンテンツを構築するためのツール」止まりです。


No.1126   投稿者 : 肉   2005年5月 2日 12:04

日本ではむしろ「チャーハンはラーメンよりレベル低い」というどうでもいい議論が活発に行われそうな…。
某大規模匿名性コミュニティの存在が大きいというのも挙げられると思いますよ。


No.1127   投稿者 : 楼主   2005年5月 3日 12:02

ま、議論を避けるのは日本の文化なんで、いまさら突然ブログだけにそれを求めて、アメリカナイズされなかったからといって日本のブログ界を批判するのは馬鹿だけでしょう。やっぱり日本にも馬鹿がいるなあ、中国と同じで。

「私は海外での事情も、流行った経緯もすべて知らない」というuniさんの方が、日本のことをわかってるね。普通は外国の情況を見て、日本と比較することで日本の特色がわかるもんなんだけど、上の人たちは一言で言うと「かぶれちゃった」ってことだな。


No.1128   投稿者 : CK   2005年5月 3日 13:11

●uniさん
ブログはもはや沢山ある情報発信ツールの1つとしてしっかりと根付いた感がありますよね。
掲示板を使うか、ブログを使うか、はたまたSNSかIMか、自分が望む表現、望む対話を
上手く実現できるツールを、その都度選んでいければ良いのかなと思います。その意味では、
趣味世界の情報を扱う私たちは、上手いこと波に乗っている感がありますね(・▽・)
 
●肉さん
そう、この記事で挙げたお3方が「チャーハンレベル低っ!」と考えているとは思いませんが
(梅田さんは既にその点を否定する記事を書かれています)、こうした記事がいろいろ混ぜ返されるうちに
いつのまにか「日本のブログのレベルの低さ論」みたいになると怖かったのでこのエントリを書きました。
2ちゃんねるの存在感は確かに大きいですね。「2ちゃんがあれば十分」な場面はかなり多いです。
 
●楼主さん
確かに同じツールを使ったからといって、人の気持ちまで急に変わるのは難しそうです。
どちらかといえばここで挙げた方々のお言葉は、ツールの出現の有無に関わらず
「そういう議論の場が活発になって何かが生み出されること」を望まれていて、
ツールの出現を上手く「きっかけ」として演出したかったのではないかと思います(・ω・)
そういう意味では、その試みはまだ失敗とは言えず、「苦戦中で、まだまだこれから」という感じでしょうか。


No.1129   投稿者 : 匿名   2005年5月 3日 21:14

気軽にということなので、思った事をそのまんま。

産業面でのBlogの価値は分かりませんが、議論をBlogでする気にならない
のは、私としては2ちゃんねるの影響が大きいからです。話す内容の価値
というよりも、Blogというシステムの欠陥ではないかと思います。
以下2ちゃんねるを使う、その理由です。

1、トラックバック等は面倒。1個のスレッドだと楽。何故に分散をしたがるのか?
2、個人面談x100より、100人会議の方が楽。同じ事言わなくていい。ログ嫁の3文字で済む。
3、大抵誰かが気の利いた結論を出し、しかもそれはわずか数字〜数行。寝て朝起きれば、そこに結論が!
4、Blogは完成されたレポートを読む感覚。2ちゃんのスレは思考のプロセスを読んでる感じで、自分にとって分かりやすい。
5、暴力組織を背景にもった相手でも匿名(表面上、もはや幻想の域)。しかしトリップで自己主張も可能。
6、無責任上等。

こんなところでしょうか。Blogは事の顛末をまとめるツールとしてのみ、便利に使えそうです。


No.1131   投稿者 : うーん   2005年5月 4日 04:15

暫く日本に住んでいないので良く分かっていないかも知れませんが、正面切って議論が出来ない日本人は、ヴァーチャルで無責任な立場に「開放」してあげないとまともにテーマに沿った話しができないのかも知れませんね。しかも個で確立して意見を通しで言うより、皆で指向のプロセスを小出しにして場の合議に至っている方が心地よい?

この手の無責任上等の環境で大衆文化に特化して優良なコンテンツが産まれてくるのはご同慶の至りなのですが、やはりBlogの様なインパクトのある道具が無責任・匿名性の心地よさに流されて社会に顔を向けた使われ方ができていないという点は、ちょっと残念な気がします。Wikipediaなんか見ていると、全体的に日本のコンテンツレベル低いですよね。これなんかも現状を良く表しているのではないでしょうか。

日本という殻の中に閉じこもる限りに於いては「それで何の問題があるのさ」でも問題ないと思いますが、知のネットワークはネットを通じて確実に国境を越えた規模に成長しつつあり、この日本人の特性は日本人にとって「居心地が良い」故に将来大きなアキレス腱になって行くように思えてなりません。

・・・とまあ、言っている自分が匿名でコメントしているわけで、あまり偉そうなことは言えませんが。


No.1134   投稿者 : 匿名   2005年5月 4日 10:37

おはようございます。無責任上等や議論他人任せというのが気になったよう
ですが、それはまぁ2ちゃんねるのよさということで書いただけです。
実際は解放なんかされなくても、テーマに沿って話せますし、Blogなんか立
ち上げなくてもスレッドの中で意見を通しで言えます。

しかし海外万歳丸出しの文章が返ってきたのはびっくりでしたw

私は正面切っての議論を本当にしたいのなら、むしろ匿名であるべきだと思
います。名前を出す事により、しがらみに捕われ、言わなければならない批
判もできないケースが多々あるのが現実です。

ある社会集団、組織を批判する時に、そこに親友や家族が属していたり、
自分が間接的にでも利益を得ていた場合、実名で批判ができますか?

その集団、組織が犯罪組織やそれに近い物の場合、家族や親友、自分の所属
する集団を巻き添えにする可能性があっても、実名で批判ができますか?

政治的、社会的な立場から身の安全が一般市民より保証されていたり、そう
いう発言をする事で利益を得られる立場の人物以外は、現実的には批判どこ
ろか疑問を表沙汰にする事すら難しいのではないでしょうか?

イスラム移民社会を批判したゴッホの孫は暗殺されました。
悲しいけれど、これが現実です。

匿名でない発言は、明らかな嘘偽りは少ないかもしれません。しかし実際は
ほぼ全てが配慮というオブラートで包まれており、正面切った議論ではない
と私は思います。

無責任上等と煽っておいてなんですが、日本=殻の中、匿名=無責任で議論
の価値少なし社会に顔向けできぬ、Blog=インパクトのある道具、という考
えをお持ちなら、捨てた方がよいかと。匿名でも社会に顔を向け、議論を全
うし、責任を持つことは十分可能であり、匿名だからこそできることもあり、
そしてその手段がBlogである必要は皆無なのです。

2ちゃんねるの場合、あなたや私の↑こんな意見は、既にでつくされたもの
であり、「最初の1行だけ読んだ。」「チラシ(ry」で済まされるから無駄
も無いですしね。

最後に、、、Wikipediaが正常なコンテンツだと思えるのなら、あなたの人
生はとても素敵な人生なのでしょうね。羨ましいです。


No.1136   投稿者 : 今日誕生日!   2005年5月 4日 13:29

こういう議論の場なのでどうしても意見が極論的になってしまいがちですけど、
う~んさんも、Anonymousさんも、グレーゾーンの存在を認識した上でのどっちより
から物を見てるかなんだと思われますね。(それを言っちゃあ議論にならん。とお二方
から突込みが入りそうですけどw)

匿名が無責任か、あるいは本音で真の議論を生むか、は難しい問題だと思いますよ。

ただ実際問題、現状でどちら側により傾いているか、どちら側の人が多いか、は
判断出来るのかもしれません。またその二つがどちらがより重要かも議題となっている
テーマによって変わってくるでしょう。
そうだとしたら、どっちがいいか?日本はどっちか?ゆえに日本は優れているか、劣っているか?ではなく
その両者を場面に合わせて使い分けれるか?周りの人が誰かの意見をどちらと捕らえるか、
その判断が出来るか?が、優劣の分かれ目ではないですかね。

あ、それからやっぱりこれも所詮は個人の意見ですけど僕の同僚のアメリカ人数人の意見(在米よ)は、
ほとんどの場合で、実名で意見を言ってる人の方が信頼性があるかな。って思うようです。
それが例えオブラートで包まれていようとも。でも匿名なくして議論の発展が有得ないのも事実。

ん~結局グレーゾーンなちょっと小ズルイ意見になってしまいましたけど、
匿名実名両者そろって始めて実のある議論が生まれるって事で。
(で、僕は匿名側でお願いしますw)


No.1137   投稿者 : kenn   2005年5月 4日 16:07

このエントリには膝を打ちました。猛烈に。
天に唾しても仕方ない。社会は、なるようにしかならないんですよね~。
ゴシップを過小評価しがちなのは、いつの時代の権威も同じみたいです。


No.1140   投稿者 : CK   2005年5月 4日 23:15

●Anonymous(匿名)さん
2ちゃんねると匿名性のお話については、私もAnonymousさんに全面頷きモードです(´▽`)ノ
 
もう1つの「ブログと議論」のお話についてですが、こちらもその通りだと思います。
ブログのコメント欄はともかく、エントリそのものは議論に使うには「遠回り」な感じです。
というか、ブログというツールは、議論ではなく自己主張に適していると考えています。
例えばAさんとBさんが居たとき、掲示板ではAさんは「Bさんに向けて」意見を書き込みます(議論)。
でもブログでは、AさんはBさんの主張を横目に見つつ「多くの読者に向けて」意見を書きます(主張)。
 
 「Bさんはこう言っているみたいですが、私Aはこう思います。『皆さん』はどうですか?」
 
AさんとBさんはトラックバックを打ち合っていても、基本的にAさんとBさんは『皆さん』に対して
話しかけています。これを私は「聴衆を通じた間接対話」だと思っていますが、非常に面白い現象です。
議論というのは「直接対話」ですね。ブログの直接対話はコメント欄にしか存在しないのかもしれません。
 
●うーんさん
お気持ちは何となく判ります。そして米国あるいはそれと似たような文化をお持ちの国に住まわれている方
からすると、「自分の意見くらい素性を晒してハッキリ言えないなんてダラシナイ」という印象を持たれることが
多いだろうと思います。そのあたりは「立派と思われる人間像」が文化ごとに異なり、それは遡ると歴史と教育
まで掘り返さないといけなくなりそうですが、一概にどちらかに軍配を上げれば良いという話ではなさそうです。
 
1つだけ気になったのは、匿名性と無責任を基点としたコミュニケーションが、社会に顔を向けた使われ方に
なりにくいのでは、というお話についてです。私は匿名性と無責任を基点としてコミュニケーションが行われる
という事象そのものが、構成要素としての「リアル社会の一部」だと考えています。そこには建設的な意見もあれば、
汚い愚痴や中傷もあるかもしれません。でもその先には、それを書いた「人」が確かに存在します。
その人はどんな気持ちでその情報を刻んだのでしょうか。そこに「人」がいることを想像すること、
「人」が何らかの気持ちを持って情報を書き込んだということが、社会の中の「リアル」な事象であること、
それを受け止める想像力が、これからのネット社会には求められていくような気がしてなりません。
 
●今日誕生日!さん
お誕生日おめでとうございます(・▽・)ノ
仰るとおり、人々の受け止め方というのはとても重要ですね。匿名・無責任にしても、実名・有責任にしても、
まずはそこにいる発言者、読者が、スムースに受け入れられる対話方法を選択しないことには始まりません。
 
在米の同僚の方が実名を好まれるというお話ですが、それが「本名」という意味の実名だからこそ、
なのかどうか、その辺りには興味があります。私が考える基準というのは、同一のアイデンティティ(名前、人格)
を長く使い続けるかどうかという点です。同一の名前を使っている方は、過去に遡って信頼を溜め込むことが
できますから、過去に良い発言をしていれば新規発言には最初から信頼がプラスされてくる、という見方ですね。
 
●kennさん
ありがとうございます。大変恐縮です。
ゴシップなどの存在も、それ「そのもの」が社会を作っているという見方ができると、
マクロな視点からは見えなかったいろいろな世界の理解に繋がっていきますよね。
まさにkennさんの仰るところの『形式ではなく内容それ自体』の変化に、ちゃんと気がつけるかどうか。
人々は「できるようになった」ことには無関心ですが、「やりたかったこと」は「できなくても」やろうとします。
情報を「浴びる」のではなく「扱う」ことに慣れてきた私たちが次に目指す変革とは何か、
それはとてもとてもエキサイティングな予感がします。そして『グロテスク』かもしれませんね(?)


No.1141   投稿者 : iseeker   2005年5月 5日 00:37

このエントリーを読んで思ったのは、『よくある「ブログを使えば云々」と言う主張は、「女子高生にポケベルを持たせたらバリバリと仕事をするに違いない(そんなことを思った奴はいないし実際そうはならなかったわけだが)」という勘違いと変わりない』ということである。


No.1142   投稿者 : 肉   2005年5月 5日 02:32

んまぁ、にちゃんみたいに匿名の人ばかりだと、
記名制のコミュニティに比べて相手がどの様な考えを持っているか把握しづらいので
議論が中々進まないという欠点が有るかと。
名前が書いてあれば、その人が今までどの様な発言をして、どの様な考えを持っているか
把握しやすいですから。
正直にちゃんねるは方向性を失っていると思いますが、そこがまた魅力なんですよね。


No.1143   投稿者 : うーん   2005年5月 5日 11:42

Anonymousさんに海外万歳な意見と言われて、「ありゃー、そういう風に受け取られるんだぁ」とビックリしました。

決して海外万歳を叫んだつもりは無くて、日本人が一方的に情けないという一面的な見方をしている訳でもありません。日本人にも良いところは沢山あると思っているし、逆に海外で暮らしている身からすると日本を色々な場面で擁護する発言を展開しなければならないので、それなりに「日本人」しているつもりです。

ただ、色々な国の人と接する中で、どうやって自分の意見を伝えるかという現実の場面の中では、やはり顔が見える情報発信をしなければ通じないことが多いと経験的に感じているので、「顔が隠された形でしか情報発信ができない」というのはやはり一寸偏っている様に思うのです。「偏っている」と書いた意味は今日誕生日!さんの意見に近く、両用可能な能力を身につける必要があるのではないか、と感じているわけです。

CKさんの言われるとおり、匿名性も社会のリアルな社会構造の一部ではありますが、匿名性の中で磨き上げられた意見も、実行段階では何らかの責任主体が求められる訳で、デモの組織化が目的ならともかく、社会システムにそれを反映する上でのアカウンタビリティの不足という点で匿名性は弱点を抱えているように思えるのですが如何でしょうか。逆に「匿名のまま実行」する一番極端な例がテロや暗殺なのでは?

責任を込めた情報発信をする、それをベースに向き合った議論ができるというのは「最初の1行だけ読んだ」「チラシ」で済ませてしまう意見の中に含まれているかも知れない掘り下げを丁寧に拾うということでもあると思います。まあ、相手にされるかどうかは勿論その人の実力次第ですが、キチンと顔の見える議論ではそうそう無責任な扱いはできないのでは。逆に匿名の中では暴力を働かせる集団が居たとしても結局匿名のままですよね。

最後にAnonymousさん、日本語のWikipediaだけを見て判断していませんか(だとすれば私もあなたの意見に非常に納得します)?


No.1145   投稿者 : 昨日誕生日!   2005年5月 5日 17:13

「実名」というのはいわば信頼出来るかどうか、その判断の一材料だと思うのです。
人は実名が知りたいのではなく信頼できるかどうかを判断したいわけで、CKさんの言うとおり
実名でなくてもその判断の材料があればそれでいいんじゃないかな。
ただネット社会でずっと同じ名前を使い続けて信頼を得るにはそれなりに実績がいるわけだし
誰もがそういうライフスタイルを持っているわけではないですよね。いや、むしろそういう人は少ないと思う。
でも実社会では信頼すべき意見を言っている人は多いわけで、その人たちがネットで意見を言う場合
実社会での信頼実績を反映させるにはやはり実名(あるいはそれに代わるサイン)を使うのが一番確実なんだと思うのです。
そして読み手もそう思うからこそ、やっぱり実名の書き込みを信頼しやすいのではないでしょうか。


No.1156   投稿者 : CK   2005年5月 7日 02:26

●iseekerさん
ポケベルの話にしても「ポケベルは女子高生には無用の長物だった」という結果にならずに
「女子高生はもともと大好きだった『お喋り』に、ポケベルまでも利用してしまった」という
結果になるところが面白いですよね~。
ブログを趣味娯楽に使って活き活きとしている私などはまさにそういう状態でしょうか(笑)
 
●肉さん
2ちゃんねるの場合は、トリップを使わない限りは、相手の素性も手探りで推測するような
状態になりますよね。ID制のある板であれば、ちょっとは判りやすくなりますが・・・。
この辺りもまぁ良し悪しで、お互いに過去の発言を漁って足を引っ張り合うような事態もなく
常にプラマイゼロから前向きにツッコミ(?)できるのは2ちゃんねるの良い点かなぁ、と思いました。
 
●うーんさん
いろいろな国の方と「接しなければならない」シチュエーションを考えた場合、確かに、仰るような
「顔の見える対話」のスキルを磨く必要性は増してきますよね~。両用可能な状態を目指すのは
とても良いことだと思います。その辺りは正直、「言語」に起因する壁を感じることがあります。
(言語の相互理解があれば、否が応でも文化が接触し、そういうスキルを磨く機会は生まれたでしょうに・・)
 
社会システムへの反映の件ですが、デモを起こさなくても、法律を変えなくても、政治家に立候補しなくても、
「他人の気持ちに影響を与えたら」それだけで、その対話は社会に作用したと、私は考えています。
CCCDの廃止の一件を見ても良く判りますが、大規模な「不買運動」などが起きなくても、皆で情報を
交換し合い、皆が少しずつCCCDを嫌いになった、それだけでCCCDは成り立たなくなりました。
実在の人物かどうかも判らない人の言葉たちが、「他人の心」というリアル社会の要素を動かしていく、
そんな不思議な現象を私たちは目の当たりにしているのかもしれません。実在人物かどうか判らない
私のブログが、時には皆さまの購買行動に影響を与えるように・・・(あっ、ホラーっぽい・・・)。
 
●昨日誕生日!さん
なるほど、実名でもニックネームでも信頼の蓄積は可能ですが、実名ならば
「今まで生きてきた実社会で既に蓄積されてきた信頼を、そのまま持ち越せるから」
スタート地点が優位だというワケですね。それはとても納得です。
逆に実社会での信頼の蓄積がほとんど無い場合はニックネームのほうが有利だったりとか∑( ̄□ ̄;) (おい
あとは実名公開のリスクとの兼ね合いですね。もし、実名によって持ち越せる信頼が、
実名公開のリスクと秤にかけて「割に合う」と思えば、公開は賢い選択なのかもしれません。


No.1618   投稿者 : なすび   2005年9月 6日 15:15

それぞれの国の「文化」と言うのが、少し軽んじられているように感じるのは気のせいで
しょうか? 日本は村社会故、「和」の精神を最も尊重し、欧米-特に米国は「個人主義」
を尊重していると思うのですが。ディスカッションやディベートが好きな欧米人と、それ
よりは井戸端会議的な雰囲気を好む日本人。その差があるだけだと思います。

国際社会は欧米のルールで動いているので、グローバルスタンダードなるものにあわせよう
とすると確かに欧米人のような特性が求められますので、議論のできる風土というのが
尊重されるのでしょうが。

また、日本と米国ではネットを取り巻く環境が若干違いますね。日本の場合、ブログが流行
るずっと前に日記というコンテンツ形式が市民権を得ています。だからツールを使わず
日記を書いてきた人が、そのままブログをツールとして使っているケースが多かったのでは
と思っています。

また、日本において議論は掲示板という棲み分けができており、2ちゃんねるはできるべく
してできたと思っています(それ以前はニフティが最も大きなコミュニティか?)。
ブログの進化の方向性が日本と米国では違うというのは、この辺から来ているかと思います。

最後に実名か匿名か? という議論ですが、どちらも一長一短あると思います。しかし、
実名=信頼度が高いというのはあまりにもリテラシーに乏しい。と言うのも実名で記事
を発行している新聞やTVの捏造やミスリードが多いためです。
匿名の問題は、やはりなりすましの問題が大きいかと。


No.1645   投稿者 : CK   2005年9月14日 01:10

●なすびさん
文化の違いは、すなわちそこで生活している人の「心」の育ち方の違いでもありますからね~。
そしてそれを生み出す教育の違いもあり・・・なかなか以って難しいものです。
私は残念ながら日記コミュニティ全盛の時代をあまり深く知らないのですが、
「weblog」が国内上陸し始めた2003年初頭、多くの人がブログの凄さをよく理解できなかった
という話を聞きました。今にしてみるとその気持ちはとても良く判ります。
少なくない個人モンスター(?)な方々にとって、個人発信とは既に馴染み深い習慣になっていたのですよね(´ー`)



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